中国独自の有人宇

hushue123

2015年01月14日 13:35

にかけて2年間中国に滞在してその風景を1953年ごろの日本に当て嵌め、郷愁のようなものを感じていた。無論、中国が核兵器を持ち、ミサイルを持ち、インドと国境紛争で大規模な軍事衝突(1962)を起こし、中国軍が勝利したことも知っていたが、核兵器が中印国境に近いチベットに配備されていたとか、20キロトンの核弾頭を装備したミサイルを酒泉から発射、ロプノールの標的上空569mで爆発(1964)とか潜水艦発射弾道ミサイルを開発(1967)。その後毎年のように核実験を繰り返していた事は知らなかった。。
また、米ソの宇宙開発競争が展開するなか、中国独自の有人宇宙計画を決定(1967)、翌年中国初の有人宇宙船が曙光1号と名づけられた。ソ連の脅威に対応して、国境から離れた西昌市の山間部に新しい射場、27基地建設が決定。1969年長征1号初発射、失敗に終わり、1970年2月の日本初の人工衛星おおすみが打ち上げられ、先を越されるが、中国は4月に長征1号による中国初の人工衛星東方紅1号の打ち上げに成功し、そのロケットはソ連、アメリカ、フランス、日本によって最初に打ち上げられたどの衛星よりも重い衛星であったなども知らなかった脫髮


中国が毛沢東への個人崇拝の下、大躍進の失敗、一時的毛沢東の後退、個人崇拝を梃子に文化大革命で中国を混迷に陥れ、1921年共産党結成以来、中国革命を共に戦った「老同志」達を党内闘争で切り捨て、世界から半ば見捨てられた状況にあっても、核兵器を開発し地上実験を繰り返し、長距離弾道弾を開発、そして有人衛星ロケット開私人補習
発を続けていた。
文革中にも中国の核実験が報道された。あの文革の混乱の中、確実に核実験を繰り返していることに違和感があったが、そんな中国における科学と思想の二律背反的な現象も報道されることはなかった。
1976年9月、毛沢東の死後、鄧小平が復活してからも長征ロケット発展が進められ、商業衛星打ち上げも活発化し、海外の衛星も打ちあげるようになり、ロプノールで最後の大気圏内核実験(1980)が行われた。そんな中国を貧しい社会主義国護髮產品

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